こんにちは、ムギです。
今回は「罰の正当性」をテーマにお話しします。
「罰とは何か」を考える上で参考になるのが『ハンムラビ法典』です。「目には目を、歯には歯を」という言葉はご存じの方も多いと思います。
「昔の人が作った法律だから野蛮だな」と考えるのは早計です。
この「目には目を、歯には歯を」には被害者と同じ被害を加害者に与えるという意味以上に、「こちらがやられたこと以上の過剰な復讐をしてはならない」という復讐抑制のための法でもあるのです。さらにこの刑が適用されるのは「一層自由人」と呼ばれるエリート層であり、一般市民や奴隷には基本的に「償い」としての罰金が科されると別の条文に明記されています。
全282条もあるこの法典は当然現代でそのまま適用できるものではありませんが、紀元前1792年のバビロニアという歴史を考えれば、ハンムラビ王のこの法典のすごさは分かると思います。
普段の生活の中で、どんなにすばらしい法があってもその有り難さをイマイチ感じないのは、それによって抑制されていると感じる上に、「罰則」があるからでしょう。違反すれば自業自得ではあるものの、その罰を受け入れることは簡単ではありません。
やはり「罪と罰」を考えるのは難しい。
「罪」に対してどんな「罰」を与えるか。この問題を難しくしているのは、罰の目的が「悪の排除」や「見せしめ」だけではないからです。「悪の排除」が目的なら極論、罪を犯したものは全員死刑にするのが手っ取り早い。それをしないのは国民が減る=労働者が減るというデメリットがあるのはもちろんですが、現代社会ではそれに付け足し「社会復帰」という目的があるからでしょう。
しっかり罪を償って、また社会で頑張ってほしい。
それが根底にあるはずの罰。しかし、現実は…。
社会復帰した後に再犯する者。捕まったことへの恨みから復讐をする者。過去の前科を責められ社会復帰を拒まれる者。重すぎる罰、又は冤罪で絶望する者など。一度罪を犯した者や罪を犯したと疑われた者が社会に受け入れられるまでになるのは難しい。
そもそも本当にその人が反省するまでに至る「罰」を、法律と裁判で決められるのでしょうか?「死刑になりたいから」や障害者差別などを理由に罪もない人を殺めた者を、本当に法律で裁けるのでしょうか?
パンを盗んで捕まり、そこから市長にまでなったジャン・ヴァルジャンがそこまで更正したのは罰のおかげではありません。そんな彼を一人の人として接してくれた神父のおかげです。また、法律で裁かれないからといって「ダークヒーロー」が流行る昨今ですが、果たして本当に彼らは「ヒーロー」なのでしょうか?そして社会に必要なのでしょうか?
真の罰の目的は”懺悔”にあると私は思います。それ故に「自分がしてしまった行いに対し心から悔い改めること」を他人が決められません。真の「罰」は、”自分の心”が知っているのです。
しかし、実際に自分で自分を裁けるかと言えば、そんなことできる人はなかなかいません。自殺は”懺悔”でも”筋を通した”ことにもなりません。
そういう罪人を裁けるのは、”人の心”をきちんと見ることができ、かつ”罪を憎む鬼の心”と”人を愛する仏の心”を併せ持った者だけです。
そのような人は過去や空想の中でしかいないのでしょうか。いや、同じような信念を持つ人は必ずいます。そしてそういった正義感や信念を持つ人が警察や司法、そして政治家になって欲しいと願います。
そういう人を社会に求めるために私達も、政治や裁判にも興味を持ち、選挙などの機会があるときはきちんと参画していきましょう。
ところで私達の多くは司法に関わる仕事もできなければ警察も行政にも関わりません。そんな私達が勝手に裁くことはできません。ではこの話は私達に関係がなく、被害者や加害者がいても見て見ぬふりしかできないのでしょうか?
いいえ、”寄り添う”ことはできます。
それは次回、『罪と罰』の重要人物の一人、「ソフィヤ」から学ぶとしましょう。
参考文献
