第2章 ”罪”の境界線

こんにちは、ムギです。

今回は「どこから罪か」をテーマにお話しします。

罪を犯さないためには「共通の道徳・モラル」が必要。しかし、なかなか全世界で同じものは見つかりません。

こういった倫理観の違いを議論される際によく出題されるのが「トロッコ問題」です。


もうスピードで暴走したトロッコが向かっている。
あなたは線路の切り替えスイッチがあるところにいる。
右には「1人」の作業員
左には「5人」の作業員
このままトロッコが進めば「5人」のところへ進み轢き殺してしまう。
あなたはスイッチを切り替えるべきか、切り替えないべきか

これは「5人を救うために1人を犠牲にするのは正しいか」を問う問題です。押すか押さないかを瞬時に判断しないといけないという状況もこの問題を難しくする要因です。皆さんならどうしますか?(※なお、最近Twitterで投稿された「トロッコ問題」の解決法としてバズった動画がありますので、ご自身で考えた後探してみてください。)

この問題は様々なパターンが作れますが、全員同じ答えにはなりません。

それほど違う倫理観だからこそ、「法律」の必要性は感じられます。それは「罪と罰」においても同じです。

罪を犯した人は法によって裁かれる。私達のような一般人が制裁のようなことをする権利はないし、そんなことをすれば自分自身が「犯罪者」になってしまいます。

では先程の「5人を救うために1人を犠牲にした(スイッチを押した)」人は犯罪者か、はたまた英雄か?「1人を救うために5人を犠牲にした(スイッチを押さなかった)」人は裁かれないのか?

ドストエフスキー著『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは、学生時代に「犯罪について」という論文で「非凡人はたとえ法を犯しても、それ以上に人類に貢献するため、法はなきに等しい」と述べました。

所謂「天才」や「英雄」と呼ばれる人間は、多くの犠牲を出してはいますが、彼らがいなければ現代の社会はないともいえます。「犠牲なくして革命はない」と言えるのでしょうか?

彼らの行った偉業はすごい。しかし、それと「罪と罰」とは別。誰かから恨みをかえば、必ず報いは起こる。華々しい英雄譚の多くは、悲劇的な最期を迎えることが多いです。

罪には罰が付き纏う。

証拠があれば”法”で裁かれる。証拠がなけれぱ……それは”心”で裁かれる。

越えてはいけない”一線“を超えれば、自分の見る世界はガラッと変わる。すべてが自分の敵に見えてくる。自らの行動で自分が苦しめられる。「5人」も「1人」もそこは同じ。それが罰です。

もしもあなたが憎しみや苦しみに追い詰められ、“一線“を越えそうになったら、“勇気“を出して一歩足を引きましょう。

そうしたらいつか、どんな苦しい時でも耐えられた自分を認められる日が、きっと来るでしょう。


参考文献

「モラル・トライブズ」ジョシュア・グリーン著

「罪と罰」ドストエフスキー著

投稿者: 麦ブログ

介護施設の事務員として働いてます。現在行政書士資格取得のため勉強中。

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