人生の最期の評価は何で決まるのか。

こんにちは、ムギです。

「徳を積む」という言葉があります。

仏教の”因果応報”から派生した考え・言葉ですが、簡単に言えば「善い行いを積み重ねる」ことと理解していいでしょう。ではこの”見えない資産”である徳を積んだらどうなるか?仏教で話すると難しくなるので、ここでは単純に「人から信用される」と考えましょう。

この”信用”こそが人間関係において最も大切なものであり、そして経済や社会、文明を発展させていったのです。

しかし経済や社会で積み重なるのは資産だけではありません。”負”の財産も積み重なります。

負の財産が積み重なったらどうなるか?個人なら自己破産、会社なら倒産まで追い込まれ、社会的信用を失います。これはお金の話ですが、人生には”見えない負債”が数多くあります。

中には一度行っただけで一気に社会的信用を失うものもあります。それが”罪”と言われるものでしょう。人はその罪を犯した人を”悪人”と名付け、社会から拒絶していきます。

しかし、世の中には罪は犯してないが”見えない負債”を多く抱える人がいます。自分達は「甘い蜜」を吸いながら、他者に対して何にも思いやりを持たない。従業員や顧客を「モノ」としか見ず、いくら苦しめても厭わないが自分達だけは守られるところにいる。

そういった「人でなし」達への裁きはないのでしょうか?


手塚治虫著『火の鳥 鳳凰編』には二人の対照的な主人公が描かれます。

一人は産まれながらにして片腕を失い、殺人や盗みを何とも思わない気性の荒い男「我王」。そしてもう一人はそんな我王と会って利き腕を傷つけられた若き秀才の仏師「茜丸」。

「加害者」と「被害者」という関係だった二人だが、我王も同じく「仏師」となったことで再度対面し、そして対照的な結末へと導かれていく…

善悪、仏教、輪廻、才能、政治、報い…。多くのテーマを考えられる作品です。

中でも「仏教」というテーマを扱いながらも、才能を開花させた後ひたすら人々のために掘り続ける我王に対し、同じく才能があるが政治や利権が絡んだがゆえに段々と方向を違えていく茜丸と進む道が違うのも面白いところです。

罪という観点でみれば圧倒的に我王が悪。しかし、その後大勢の人々を救っていったのも我王。

”見えない負債”は帳消しにすることはできません。どんなに善い行いを積み重ねたところでなかったことにはされません。

逆もしかり。”積んだ徳”も帳消しにはされません。過ちを犯し、どんなに社会的信用を失っても消えるものではありません。しかし、積まれた徳にあぐらをかいて座り続けていればどんどん廃れていきます。

”積み重なった見えない負債”と”廃れていった徳”は人を腐敗させます。そして「人でなし」となる。

それが、やさしく真面目な茜丸の最期を決めてしまったのでしょう…


人生においてどれだけ”徳を積んだ”か?”見えない負債”と”廃れた徳”をどれだけ抱えてしまっているか?そして今、どんな行いをしているのか?

報いは必ずやってくる。それでもどんな最期を迎えるかは今の行いで決まってくる。人でなしとて同じ。

人生の最期、人から悔やまれ、そして感謝される生き方を”今”からでも行っていきましょう。

あなたの最期、あなたを見守る愛する人の顔は、悔やむ涙と感謝の微笑みか、それとも…


参考文献

『火の鳥 鳳凰編』手塚治虫著

「中島敦 牛人」

投稿者: 麦ブログ

介護施設の事務員として働いてます。現在行政書士資格取得のため勉強中。

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