第4章 ”罪も罰”も救われるか

一つは以前の記事でも書いた「罪を憎んで人を憎まず」をルールにすることです。行いとその人自身を切り離して考えないと誤った判断をしてしまいます。具体的には「罰」は司法や行政が決めることであり、そこに私達は関わりません。関わるのは一人の人物としてです。

これは先程の「救われるべき罪人」と「救うべきでない悪人」の話にも繋がります。

「救われるべき罪人」は罪をきちんと償い、社会にまた復帰できるように支援する。そうすれば、本人の”懺悔”にも繋がります。逆に「救うべきでない悪人」に社会からきちんと制裁を加えなければずっと改善されずに悪行が起こります。仮に制裁が加えられ、その組織から離れることになったとしても、そういった人達は働く力はあり、財力もある方なので生活が困窮するまでのことにはなりません。

しかし、これらを判断するためには「何が悪なのか」や、「社会」そして「人間」のことを知らないといけません。

そのために必要なのが「教養」です。特に私が言いたいのは「哲学」の重要性です。

「哲学」は「人を知る学問」です。生物学的に何かというより、”人”という存在や、「”愛”とは何か」「”生きる”とは何か」など概念的なものを考える学問です。様々な学者がいるので自分の考えに近いものを持つことも大事ですが、まったく分からないものを考えることも必要です。

「この人はどうしてこう考えるんだろう?」

それは普段の社会でも考えるのに必要なスキルだと私は思います。

もちろん「教養」には自国のこと、世界のこと、歴史と現代を知ることも重要です。何よりもまったく知らない世界について知ろうとする姿勢を持ちましょう。

人として生きる上で必要なのものを最後に挙げるのは「愛」です。ここでいう「愛」は「その人の心を解放できる」ことです。

その対象は大抵は特定の異性であり、子供、親になるでしょう。はたまた「推し」のように会えないけど心惹かれる人物のこともあるでしょう。

時に愛は道端に咲く花に向けられることもあるでしょう。時にそれは飼っている動物のこともあるでしょう。

それらは生き苦しい現実のなかでは”異質”に見えるものです。より”美しく”見えるものです。その美しさが何か分かったとき、人は今までの世界が全く違うものへ見えていく。それが、”救われる”ことなんだと私は思います。

この”愛”のみがどんな社会であっても、「生きる糧」になりうるのではないでしょうか。

『罪と罰』に話を戻しますが、上記のような「人として必要なもの」があったからこそラスコーリニコフは罪を償って心が救われました。それだけでなく実はポルフィーリイもソフィヤ自身も救われているのだと気づかされます。

『罪と罰』はミステリーとして犯人を捕まえるだけの話なら、ここまで名作として今に残らなかったでしょう。重いテーマではありますが、このような名作文学と一緒に考えることで、普段あまり考えないことを深く見つめ直す機会になると思い記事にしてみました。ぜひ、皆さんもこの作品を読んでみる(読み直す)と同時に、「罪と罰」というテーマを自分なりにも深く掘り下げてみてください。


以上のことを踏まえ、人として必要なものをまとめます。

①現代における社会規範(法律、慣習)
②道徳・モラル(正義感、信念、宗教)
③「罪を憎んで人を憎まず」(行いと人間性を分けて考える)
④教養と物事を知ろうとする姿勢
⑤愛(生きる糧)

生まれてより一度も過ちを犯したことがない人生は理想であり、そのような人は本当にすごいことだと思います。

しかし、大半の人は何かしらの過ちを犯して生きています。誘惑に負けたり、衝動に駆られてしまったり、ほんの不注意で事故を起こしてしまったり…。

でも、そのミスでこれからの人生すべてがゲームオーバーになるのか?それはもったいない。なぜなら”生きる意味”は自分で探すものだからです。

その被害にあった人達のためにも償いをし、はたまた亡くなった人の分の人生を背負ってこそ意味があります。そしてその経験を共有して「こうなるなよ」って強く生きた方が、あなたの知らない誰かを”救うこと”になるのではないでしょうか。

誰もが救われることもあれば、誰かを救うこともある。

そんな社会にしていくことが、現代に必要なのだと私は思います。

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投稿者: 麦ブログ

介護施設の事務員として働いてます。現在行政書士資格取得のため勉強中。

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