殺人のような極端な例ではなく、何か法律違反や社会のルールを守らなかったときを考えましょう。司法や行政が何らかの制裁を下した後も、社会的制裁として「村八分」、いわゆるその所属する集団から無視や差別されることがあります。その時にその人をフォローすれば、フォローした人も制裁にあう可能性があります。しかし、それではいじめと同じではありませんか?
罪を犯した人は救われてはいけないのか?罪を犯した人は一生罪人なのか?では罪を犯した人はその集団から出ていくか、自殺するしかないのか?
そもそも”罪”を犯してはいけない。もちろんそれが大前提。
しかし、”罪”を起こす背景を無視したらこの問題は永遠に解決されません。そう、これは誰もが関わりうる問題なのです。
社会のルールを守って生活しても生活が良くなることはない。家族間の問題は第三者が関わらないと解決が難しい。法律に則りその組織の間違いを訴えても組織は変わらない。行政や国なんかもっと変わらない。「逃げればいい」と言ってもそれもできない人もいる。「それが仕事だ、社会だ」と言って我慢してもいずれ心と身体に限界が来てしまう。それほど組織に尽くしても心身が壊れた後フォローしてくれるところなんて少ない。
彼らは”罪”を起こす以外に考えられなくなるほど精神が追い詰められ、まるで”救い”を求めるように罪を犯す。家庭の内情や、職場・社会での不条理。警察も含め、行政やら相談所やら労基も社会的弱者を守るためにあるはずなのに証拠がなければ動いてもくれない。動いたとしても是正勧告だけで本当にして欲しいことはされない。家族間の問題であれば相談することが難しい。ご利益があるといわれる神社にお参りしたって何かが良くなることもない。人を呪ったところで何も起きないか、自分が変になるだけ。どうせこのままでも何も救われないなら、自分が「思いきれば」誰かが救われると考える。その「思いきり」は大抵は自らを犠牲にすること、時に他者を傷つけることに繋がります。この構造に政治も行政も気づいて欲しいものです。
そんな中で日本の自殺者は毎年2万人以上、行方不明者は毎年7万人もいる現状。事件の方がフォーカスされるが、まずこちらに目を向けて欲しい。この”生き苦しい”世の中を救うには、国にもきちんと動いて欲しいですし、選挙などを通して私たちも働きかけないといけません。そしてこの問題は各企業や各家庭、さらには個人単位でも考えないといけないと私は思います。
この「救いを求める人達」を助けず、ただ罪を犯したから取り締まるだけでは、何の解決にもなりません。その一方で、利益だけを求め、下の人間がどうなってもお構い無しの「お偉いクズ」は保護される世の中はおかしいと訴えたい。
慈善事業や介護業界などにそういった「お偉いクズ」がいることを悲しく思いますし、そういった方々が間接的に人を見殺しにしていることを世の中に理解して欲しいと願います。
本当の”悪”は何か?その”悪”は何によって裁かれるべきか?「救われるべき罪人」と「救うべきでない悪人」をどう判断するか?
刑法だけでこれを判断するのは危険です。だからこそ、”道徳”が必要です。その道徳をポルフィーリイは自らの正義感、ソフィヤはキリスト教が担っていました。
しかし、それだけでも危険です。個人の正義は他人と違うこともある。宗教もそれぞれ正しいと信じるものが違います(だから争いが起きる)。全世界共通のモラルは今のところありません。
だからこそまだ必要なものがあります。(3ページ目へ続く)
