『嫌われる勇気』、勘違いされてませんか?

誰だって嫌われるよりは好かれたいと思うものでしょう。私だって人に嫌われないように行動や言動に配慮しています。そういう人は幸せにならないということでしょうか?

逆に人に嫌われることを何とも思わない人もいます。人の気持ちを考えずに行動や言動をする人がいます。職場でも結果は出してても周りからは嫌われる上司や部下はいませんか?そういった人達の方が幸せなのでしょうか?

その人が幸せになるかならないかには、良い嫌われ方と悪い嫌われ方があるようです。

私がそれについて考えた時に浮かんだのは、以前の記事でも紹介したマキアヴェッリ著の『君主論』にある一説です。

”恐れられるよりも慕われるほうがよいか、それとも逆か。人はそのいづれでもありたいと答えるであろうが、それらを併せ持つことはおよそ困難であるから、二つのうちの一つを手放さねばならないときには、慕われるよりも恐れられていたほうがはるかに安全である”

”君主は慕われないまでも、憎まれることを避けながら、恐れられる存在にならねばばらない。なぜならば、恐れられることと憎まれないことは充分に両立し得るから。”

つまりは悪い嫌われ方とは「憎まれる」ことです。特にリーダーにおいては「慕われる」よりも「恐れられる」人であった方がチームが安全になると言います。そして「恐れられる」ことは「憎まれる」こととイコールではありません。

「憎まれること」は「恐れられること」と何が違うかと言うと、憎まれる人は相手の入って欲しくない領域に干渉してしまうことです。

自分にとって踏み込んで欲しくない空間を意味するパーソナルスペースも然り。金銭事情や家庭事情、結婚・恋愛など人にはあまり触れて欲しくない話題にずかずかと入る人は嫌われます。それはその人の「人生の課題」であるからです。

そしてモラハラやパワハラのような行為はもちろん、相手のプライドやメンツを傷つける言動。減給や退職に追い込まれることも憎まれる原因になります。

怖い上司であっても、仕事が終わったらやさしく、実力もあってアドバイスが適切な人は好かれないまでも憎まれることはありません。部下から見ても結果的に信頼されます。

とはいえその線引きは確かに難しいかもしれません。自分は良かれと思ったことが相手に嫌な思いをさせることもあります。干渉してはいけないから見守っていたつもりが相手から野放しにされたと言われることもあります。

では憎まれないためにはどういったことに気をつけた方がいいのかまとめてみます。

  • 挨拶は相手の目を見てきちんとする。人によって声の調子を変えたり、その日の機嫌でしたりしなかったりではダメ
  • 馴れ馴れしい態度はしない
  • 人の話をきちんと聞く
  • 陰口を言わない。言いたいことがあったら面と向かって言う。
  • 怒る時は怒るが、その時の口調も荒くせず、皆が見てるところで注意しない。相手のプライドに配慮する
  • 有言実行する
  • 報告・連絡・相談は誰に対しても丁寧にきっちり行う

挙げたことは当たり前な内容ですが、部下であっても上司であっても、恋人であっても身内であっても守るべきことです。最低限これをしていれば嫌われることはないように思います。

気遣いが上手い人は確かにいますが、心を読むことなんて誰もできません。皆が同じ考えを持ってはいません。自分が正しいとは限りません。

だからこそ、他者を他者としてきちんと接することが重要であり、それがアドラー先生のいう「人生の課題」を全うすることなのです。

そして”自分”は”自分”として自立した人生を送ることが幸せに繋がりなります。その時になって初めて好かれることと嫌われることだけが線引きではないと知るのです。

ここまで私の記事を読んで頂き、自分も今から変わりたいと決意した方はぜひアドラー先生の書物を手にとってみてください。

きっとあなた自身から”幸せになる勇気”が湧き出てくることでしょう。


参考文献

「嫌われる勇気」岸見 一郎/古賀 史健著

「生きるために大切なこと」A.アドラー著 桜田 直美訳

「君主論」ニッコロ・マキアヴェッリ著

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投稿者: ムギ

介護施設の事務員をやってる30代男です。商業高校卒業後、調理師専門学校入学、調理師としてホテルのフランス料理レストランに勤務。その後、地元のレストラン、漬け物工場、回転寿司屋、ステーキ屋と働き現在の職に転職しました。現在は介護福祉士の資格取得のため勉強中です。

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