君は”コンデ・コマ”を知っているか

こんにちは、ムギです。

今日は「ビジネスは格好いい人から学べ」をテーマにお話しします。これは今後シリーズ化しようと考えています。

記念すべき第1回目は歴史上の偉人、世界では”コンデ・コマ”の尊称で呼ばれる柔道家『前田光世』です。

「・・・・誰!?」

知らない方は多いと思います。なんせ歴史の教科書や歴史の解説本にはまず載ってませんから。

僕はこの方を空手の先生から教わりました。もしかしたら格闘技マニアなら知っている方がいるかも知れません。

あの格闘技漫画『範馬刃牙』に「前田光世方式」として紹介されています。これは何かというとリアルストリートファイトです。対戦相手が場所・日時の指定がなく、会った時、会った場所で闘うというのをガチでした人です。

そして、MMA(総合格闘技)が好きな方はブラジリアン柔術も知っていると思います。そのブラジリアン柔術のすごさを世に知らしめたホイス・グレイシー、ヒクソン・グレイシーで有名なグレイシー柔術の始祖はエリオ・グレイシーです。そしてそのエリオ・グレイシーに柔術を教えたのが「前田光世」なのです。タイマンなら世界最強と謂われるブラジリアン柔術は日本の柔術がもとになっているのです。

前田光世の偉業はこれだけではありません。なんとアマゾンの開拓という大事業も行ったのです。だからこそ、ブラジルのベレン市で「コンデ・コマ」の尊称でお墓に刻まれているのです。ちなみに「コンデ」とは「伯爵」を意味します。

そんなすごい方を日本人で知っている人が少ないのは悲しいことです。ぜひ、これを期に知ってもらいたいと思います。今回参考にしたのは三戸建次さんの『コンデ・コマ物語』です。簡単にその歴史を説明いたします。

1878(明治11)年
青森県船沢村で生まれます。

日本はまさに明治維新直後。日清戦争の真っ只中に学校生活を送ります。彼もまた、欧米列強に対抗すべき新しい日本の未来を仲間たちと話し、「何かやらねば」という気持ちで少年時代を過ごします。

そして、中学校に柔術部を創説し、旧津軽藩柔術師範斉藤茂兵衛に「本克己流柔術」の指導を受けます。
その後2年で中退、上京し早稲田中学に編入学 現在の早稲田大学があるところで「柔道」を習います。この柔道の創始者はあの嘉納治五郎です。

1904年光世が26歳のとき
嘉納治五朗の推薦で柔道普及のため渡米します。ここから日本に戻ることは二度とありませんでした。

1905年
ニューヨークの新聞にこんな大胆な挑戦広告が出ました

「如何なる種類の格闘技とも対戦する。私と勝負して勝った者に『1000ドル』を進呈する。 ヤマト・マエダ」

さあ、ここから前田光世の異種格闘試合が始まります。 格闘技ファンなら熱くなるところなので申し訳ないですが、ざっと流して説明します。

渡った国はアメリカ、英国、ベルギー、フランス、スペイン。そこで様々なレスラー、ボクサー、警官を相手に百戦百勝し、スペインでコンデ・コマ(コマ伯爵)の称号を受けます。ちなみにコマは"困る"から来ているそうです。
もちろんただ闘っているだけでなく、日本の柔道を世界各地で講演もしました。

そしてキューバに渡り、なんと「勝った者に1万ドル」にまで懸賞金を上げます。メキシコ、もう一度キューバ、その後中南米を転々とし、ブラジルへ渡ります。ここでグレイシー一家と出会い、道場を開き、柔術・護身術を教えることになったのです。結局、最後まで勝ち続けたとういうのですから驚きです。

彼はこのブラジルという地が気に入り、ついにブラジル国籍を取得し、ベレンに永住することを決めました。

その頃、日本は海外への発展を目論んでいました。そのため、この南米の地にも多くの日本人移民がいたのです。
そしてその日本人移民が一大事業として行っていたのが「緑の魔境」と呼ばれるアマゾンの開拓です。その中心人物こそが『前田光世』でした。

なぜ南米なのか、なぜアマゾンを開拓しなければならなかったのか?前田光世は言います。

「日本にはどこにも植民地はありません。国際連盟とか、不戦条約とか結ばれている今日、弱小国を力を以て自分の属領植民地とすることはできません。我々日本人を歓迎する国に植民して、民族の発展を計る他ありません。

我が民族の発展地は、このアマゾンなり。」

いかがでしょう。世界はまさに帝国主義の時代。それでも力で制圧するようなことはしない。だけど綺麗事ばかりは言わない。彼は武士道の精神のもと、あくまで「正道」で日本の発展に貢献しようとしました。

そしてブラジルの発展のためには、アマゾンの開拓が必須だったのです。

アマゾンはまさに新天地でした。当時、ゴム産業の開発を進めていましたが、悉く失敗し、出資していたアメリカや欧米諸国はすでに撤退していました。新しい産業を必要としていたのです。

1928年 州政府支援のもと、2つの会社を中心に開拓事業を進めます。
南米拓殖株式会社とアマゾニア産業株式会社です。彼は私設大使、日本人会顧問として在留邦人のために尽力します。

まず目をつけたのはバッグやカーペットなどに使われるジュート(黄麻)です。今まではインドから輸入していましたが、第一次世界対戦などにより、輸入困難になり、国内生産の必要性が出てきました。そしてアマゾンの気候はこの栽培に適していると考えられていました。

しかし、ジュートの栽培は失敗の連続でした。ジュート栽培は河の中で行われるため、泥沼の中で重労働に苦しみます。雨期には川の水がどんどん浸水し、1日でも刈り入れが遅れれば鼻だけ水の上に出して手探りで刈り取らなければなりません。さらにはマラリアが猛威を振るいます。まさに「生き地獄」です。あまりのつらさに脱耕者も後を絶たなかったそうです。

他にも期待されていたカカオ栽培、熱帯農法、鉱山事業も成功せず、1935年、南拓会社は破綻します。
そんな状況でも次々と送られてくる入植者。まさに暗雲が立ち込めていました。それでも前田光世は日本人移民達を励まし、支え続けました。

試験農場の閉鎖される前日、職員が2本の元気な若木を見つけます。それは以前インド人から買った「ピメンタ(胡椒)」の苗木でした。もしかしたら何かに使えるかもと思い、ずっと育てていたのです。職員はその育った若木を持って帰り、研究を繰り返し、見事増殖に成功しました。

1935年 アカラ産業組合を成立しました。戦後には「ピメンタ御殿」と呼ばれ、アマゾンの一大産業に発展するまでになります。

1937年 ついに苦戦したジュートの製品化に成功し、アマゾンのもう一つの産業になりました。

ようやく明るい兆しが見えてきた中、1941年11月、前田光世は第二次世界大戦が始まる前に、ベレン市の自宅で息を引き取ります。日本の敗戦、さらには事業を起こした胡椒栽培の発展を見ることもありませんでした。
彼の最期の言葉は「日本の水が飲みたい」だったそうです。

彼の死後1956年、生誕地である船沢と弘前公園追手門脇に記念碑を建立されます。

彼がベレンに留まらなかったら、アマゾンが世界に誇るジュートや胡椒などの産業はありませんでした。日本人移民だけでなく、ブラジル国民にとってもまさに、「アマゾン開拓の恩人」だったのです。

柔道家として、紳士として、顧問として、父として、そして一人の男として。

現代の日本人に大切なことは、言葉を発せずとも、彼の生き様が教えてくれるでしょう。

力強く、静かで、そして何よりも雄弁な巌のように・・・


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投稿者: ムギ

介護施設の事務員をやってる30代男です。商業高校卒業後、調理師専門学校入学、調理師としてホテルのフランス料理レストランに勤務。その後、地元のレストラン、漬け物工場、回転寿司屋、ステーキ屋と働き現在の職に転職しました。現在は介護福祉士の資格取得のため勉強中です。

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